2009年11月29日

結核

さいたま日赤に入院し、八月半ば迄は検査の連続だった。
オレはベットから一人で起き上がる事も出来ず、トイレも小便は管、大便は一人で起き上がる事も出来ず、ポータブルトイレを用意して貰い、看護士に手伝って貰いながらしていた。
しかも便の出が悪く、かなり強力な下剤で、やっと出るくらいだった。
そして、呼吸困難や食事が喉を通らない事も、しばしば有り、いつ死んでもおかしくない状態が続いた。
この間、オレは携帯電話を持っていなかったので、オレが入院していて死にそうだったのは、丸っきり誰も知らなかった。
娘が毎週遊びに来てくれる事が、唯一生きる活力だった。
だが、その生きる活力を奪う恐ろしい病気が、オレにある事が判明した。

結核だ。

1世紀前なら、死病だ。
武田信玄、高杉晋作、沖田総司など、歴史上重要な人物達がこの病気で死んでいる。
だが、今の時代は治療法もあり、軽ければ投薬だけで治る病気だった。
オレの結核は、偶然発見されたもので、自覚症状は丸っきり無かった。
結核自体は早期発見で軽かった。
しかし、多少の排菌があり、オレの病室に出入りする者、全てにマスク着用が義務付けられ、病室も当然個室、ドアは閉めっ切りと言う簡易隔離状態だった。
そして、12才以下の病室への出入りが禁止された。
その事で、唯一生きる励みだった、娘に会う事も出来くなかった。
そして、次の月、オレは結核の隔離病棟がある"さいたま市民病院"に転院させられる事が決定した。
だが、転院の一週間位前、オレの病気の仮診断が付き、一ヶ月に三日間しか使えないと言う強力な治療薬、ステロイドパルスによる点滴をした。
この時点では、何も変化は無かったが、後にこの薬での治療は間違いでは無い事となる。

2007,9/1

オレは結核治療の為、さいたま市民病院で隔離される事となり、日赤の救急車で運ばれた。
この時点で、まだオレは寝たきりであった。
自分で起き上がる事が出来ないのだ。
だが、結核病棟と言うのは、普通に生活出来る、余り病人ぽくない人間の集まりだった。
排菌しない様に隔離されているだけだ。
そーゆう集まりの中、病人らしい病人は、オレ一人だった。
利き腕である右手は全く動かず、歩く事も出来ない、自力で起き上がる事も、トイレに行く事も出来ない。
そして、携帯電話もない。
誰かが持って来たラジオだけあった。
しかし、この隔離病棟は電波の入りが悪く、FMは聞けず、AMの一部だけが入る状況だった。
オレはAMのNHKラジオだけを聞き、寝たきりの一ヶ月を過ごした。

そして、目にも異常があったので、この病院の眼科でも診察を受ける事になった。
結核性緑内障と診断された。
そして緑内障の進行を止める為、目にレーザーを撃つレーザー治療が三回に渡って行われた。

20090317001412_2.gifオレの写真ではないが、こんな感じだ。
レーザー治療後の眼底写真


オレの目には、最終的に、両目で約2000発のレーザーが撃ってあるので、この写真の三倍くらいレーザー痕がある。

そして、さいたま市民病院でもステロイドの投薬が続いた。
だが、その投薬治療が効きだし、オレは頭がフラフラする事、つまり今まで真っ直ぐ立っても真っ直ぐ立ってられなかったのが、徐々にフラフラが無くなって来た。
しかし、この時点では立ち上がるのが やっとであった。
右手の握力0は治る事が無かった。
20090317001730_2.jpgトイレは少しレベルUPしてた。
でも、小は尿瓶、大は看護士にズボンやオムツを脱がせて貰うと言う有様だった。
そして、しばらくリハビリに専念すると、足首を固定する装具を付け、ほんの少しだが歩ける様になった。

(今履いている自分専用の装具)

やはり頭のフラフラが無くなったのが大きかった。

そして、肝心な結核の方は、三日間、嘆を採取して検査した結果、全く排菌していなく、結核病棟を退院出来る事となった。

また日赤の神経内科に戻る事となった。
ちなみに、この結核と言う病気は国指定の病気で、入院費用は一ヶ月三千円だった。
これから掛かる入院費用を考えると、あと三ヶ月くらいいてもよかった気がする。

日赤病院に戻る事となった。

入院生活は、まだまだ続いた。
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